姉からの遺文「冬木町5番地 幼かった弟たち妹たちへ」
姉からの遺文「冬木町5番地 幼かった弟たち妹たちへ」
志垣 豊子
新しい丸太を“大のこ”で切るおがくずの匂い、さわやかな香りだと私は思う。
その中で育った私はふるさとである木場が好きだ。私の小学生のころ、昭和10年代の始まりはまだまだ江戸の風習と云えるものが残っており、雰囲気を残すお年寄りもいられたように思う。
「状使い」(じょうづかい)という言葉、聞いたことがおありだろうか。
父の話の中に「状使い」という言葉が出てきて、わたしは何だろうと思っていた。
状使いのじいさんは材木関係の店の奉公人であったのではと思う。つまり今の郵便屋さん、宅配便で、その店に所属して電話もないころ飛脚のように手紙や書付けを店から店へ運ぶ仕事だと分かってきた。
昔の紀文、奈良茂を筆頭に材木問屋というと皆が豊かであったように思えた。我が家も戦前までは豊かであることが私の目にもわかった、それを充分にたんのうして育った自分を有りがたいと思っている。後から生まれた弟・妹たちには申し訳ない気持ちである。
さて、家の親戚も材木関係が多く、その筆頭が花村家である。
ひでさん(冬木町のおばあちゃん)たけさん(牛込のおばあちゃん)の実家である。故に冬木町のおばあちゃんは長女、牛込のおばあちゃんは二女、姉妹なのだ。
当主は金之助、三番目に生まれた長男、その後のことはわからない。金之助氏は筏取扱組「大和組」の長である。大勢の筏師のことを木場では川並といい、粋なこと木場一番の男たちである。仙台堀を流す筏を見て育った我々7人の子供たちである。
金之助さんの奥さんはおひでさんと云ったが冬木町のおばあちゃんと同名なのでおコトさんと皆は呼んでいた。さてこの「おこと」さんはキリスト教徒で救世軍に所属し、神保町の教会の信者であった。風のたよりに子供の耳に入ったのは、周囲の反対を押し切り金之助さんが結婚したとか、さもありなんと思うくらいきれいな人だった。さそわれてクリスマス会に行ったり、神保町の教会へ一度位連れて行った気もする。
福砂通りを木場一丁目~二丁目~三丁目と越えると、東陽町(豊住町)となる。そこに花村家はあった。
古い二階建ての家が二軒並び店は別にあったようだ。店のガラス戸の向こうに屈強な男たちが火鉢にあたっていた。後ろの方に状使いのおじいさんの姿もあった。
花村家が金之助さんから源之助さんという長男に移り、おとくさんと云う奥さんとの間に長男慎之助、次男三女が生まれた。
長男の慎ちゃんがどうやら私と同年代らしく、戦争中に学徒動員に出されたらしい。戦後銀座の行き交う人の中に彼が彼女らしき人と笑いながら歩いているのを見かけた事があった。
戦後に皆忙しくなり、お互いに昔程行き来しなくなり、若い人が家業もつがず、慎之助氏はたしか横川橋梁のサラリーマンとなり、神奈川に住むとか聞いた。
そうそう、花村家には千葉県の九十九里の海辺に別荘があり、子供達は行っていたらしい。
わたしは合子叔母さんが肺をわずらった時(軽症であったらしい)療養所として泊まり込みで借りていたので見舞がてらおばあちゃんについて行ったのをかすかに覚えている。潮の音の聞こえる海からすぐの家であった。
さて九十九里というと菊ちゃんを思い出す。花村家は金之助、吉次郎、和三郎という三人の男の子がいてわたしは何という粋な名付けだろうと思っていた。殊に和三郎とはいかにも素敵な名前に思えた。その娘が花村菊であ
る。
惜しくも若くして和三郎さんはなくなり、つれあいの奥さんは事情があってか菊ちゃんを置いて再婚してしまった。残された菊ちゃんを金之助さん、おばあちゃん達は可愛がり、中村高等女学校卒業後お手伝いとして冬木町の家にも長い間いて母代わりにわたしの稽古事にもついていったりしてくれた。
わたしは親しむ余りずいぶんわがままを言っていたように思われる。本当にありがとう菊ちゃん。やがて栗信商店の番頭である信さんと結婚、深川公園の隣のアパートに住んだ。縁日の焼きそばが好きな私のために買いに飛び出して行ってくれた。なぜか一人でアパートで留守番中、聞くちゃんが読みかけの品があり、たしか「煤煙」ではなかったか、むずかしそうなので表紙だけ見た。菊ちゃんはインテリであった。
やがて戦争がはげしくなり、信さんにも召集令状が来て出征し、フィリピン沖で戦死、菊ちゃんには美代子ちゃんと〇〇くんが残された。わたしも段々と大人になり自分のことにかまけて菊ちゃんがどう暮らしていたのかわからない。ただ冬木町の祖母のお葬式の日に台所を勝浦のおつねさんと手伝っていたのをうっすらと覚えている。後に年取った菊ちゃんを美代子ちゃんが引き取り、よい旦那に恵まれて最後まで看取られた。
信さんを思い出すと、次々にお店の人が浮かぶ。
信さんの兄の清さん、結婚して大和橋近くに住む通いの番頭さんだったが、夫婦仲が悪くて奥さんはちょいちょい母に涙の訴えをしに来ていた。兄弟で住み込みは茂どんとみのどん。富山の人だったが家に来た経過はわからない、富山のいかの「黒づくり」やかまぼこを親元からいただき父も喜んでいた。
「どん」とは“殿”のこととあとでわかった。他に奉公がいやで納屋の材木の上にかくれて見つかったよしどん。
編み物が趣味で上手にひまさえあればセーターを編んでいたユウどん等々、他には古くからの独立した惣さん、庄さん。惣さんは一番始めに私を床屋さんに連れて行ったのは俺だと変にいばっていたが私は何も知らない。その他小僧さんの出入りは何人もあり、女中さんも二人位はいて、大勢の子供と奉公人への気遣いでさぞ母は大変だったろうと思う。
私が今も誇らしく思うのは父の小僧さんたちへの遇し方。近所でも栗信さんは食事がいいと有名だったとか、父は自分の経験から店の人たちの事を思っていたのだと思う。いつも1日と15日には近藤という仲町の洋食屋からトンカツとかの洋食をとり、小僧さんたちの楽しみだった。
近藤の配達のお兄さんは岡持ちを下げ、チャラチャラとセッ駄をならしてやってくる。その音を聞いて近藤が来たと喜んだ。
さてここで栗信さんの旦那がご登場である。戸籍上は父と母は従妹である。
先に幸太郎という長男が(戸籍上養子であるが)おり、もう十歳くらいにはなっていたが、自分の子のない祖母はもう一人ほしいと父が生後一週間でもらわれたと聞く。
明治小学校に入りよく出来たのでスポンサーがついて薬剤師になれと勧められたらしい。しかし父はどうして材木屋を選んだのか、山上さんという材木屋に奉公をし、可愛がられて店を出してもらった。なぜ屋号が栗信商店なのか、どうして聞かなかったのか一生の不覚と思っている。
甲種合格で入営し、成績優秀で騎兵学校に入る。そのころの馬上の写真、今はだれが持っているの?祖母が軍服のどこかに縫い込んだお札が上官に見つかり、上位に上がれず上等兵のまま除隊したそうだ。
戦争がはじまり(わたしが幼稚園の時満州事変、小学生で支那事変、女学校二年で太平洋戦争)と戦争中での学校生活であった。
30代だった父にもいつかは召集が来ることを覚悟し、母と後の事など話していた様だった。カーキ色の巾着型の布の奉公袋は忘れられない。そこに印鑑や必要書類を入れていた。三月十日の大空襲のさなか、私にこれは大事なものだから持っている様に渡された。私は受け取ったが火の粉が降るあの騒ぎの中、一寸置いた門の横の梅の木の根元、祖母と広を連れて先へ逃げろと云う父の声を聞きもう奉公袋の事は頭になかった。幸い助かった後日、なくした事に気づき、父に云ったが、どんなに怒られるかと思ったが父は一言も何も云わなかった、内心どんなに困ったことか、私の大失敗である。でも一言も叱らなかった父にどんなに小さくなって感謝した事か。
さて店は河岸に面して並んでいる材木屋の中の一軒で、立ち並ぶ材木に埋もれていた。住まいは、震災後“改正道路”と呼ばれた「福砂通り」で現在は“葛飾橋通り”と呼ばれる。
道路の向かいの内辰さんに行くのが、はるか遠く感じるほど広い福砂通りだった。ところが今眺めると少しも広くない普通幅の道である。子供のころはあんなに広く見えたのに…。
内辰さんは苗字は内山さん、名前は辰三さんで、あだ名をつけたりするのが上手な父は「デコ辰」と呼んでいた。母も内々で話をするときは「デコ辰さん」と云っていた。デコ辰さんはきれいな娘さんが一人いてやがて店の番頭さんがお婿さんに入り、紋付き袴姿で白い末広(扇子)を持ってご近所に挨拶回りをしていた。その御夫妻には子供たちが二・三人授かりたしか女の子二人と男の子が一人いたような…。
福砂通りといえば荷馬車。今でこそ自動車が列をなしているが、昔は朝、空の荷馬車を引いた馬が馬方をのせて、東の砂町の方から木場に向けて来る。そして夕方は荷を下ろした荷馬車は馬方が荷車の一番前に腰かけ、馬の腰のすぐ後ろに前を見て座っている、ということで長い荷車の荷台はガラ空き、いたずら小僧の格好の遊び場所に。馬方が見ていないのを幸いに長い荷台の後ろに飛び乗って遊んで腰かける。馬方はよく知っていて大声でふり向き「コラッ」とどなる。バラバラと子供たちは飛び降りる。こんな繰り返しが福砂通りの夕景だ。
馬車が何台も通るということは馬の落とし物も多いと云う事。家の前から落とし始めると縁起がいいとか、それを岡田屋さんのおばさんは急いでチリ取りと箒木を持って取りに出る。そのころはどこの家でも畠を作っていた。私も真似して拾いに行き肥料にしてみた。戦争がまだあまりひどくない頃、小学生の頃、福砂通りには忘れられない思い出がある。
自動車もめったに通らない静かな福砂通りを遠くからザクザクという音が段々と近づいてくる。あ、兵隊さんだ、子供たちは道端で待ち構えてみている、軍歌の音が靴音と共に大きくなる、何人ぐらいなのか一部隊というのか二、三小隊に分かれて五、六十人の一組が三組ぐらい、習志野で訓練を終えて都内の兵舎へ帰る行列なのだ。福砂通りはよく兵隊さんが通った。だいたい家の前あたりで小休止。
ある日一時間の大休止となり、兵隊さんは腰を下ろし、水をもらいに近くの家に行ったりした。それを見た父は大急ぎで店の者をパン屋に走らせ沢山のパンを買い兵隊さんに配った。上官に喜ばれたと思う。そのころ兵隊さんが大声で唱っていた歌が今でも耳に残る。いつも同じ歌で唄わせられていたのであろうが「万朶の桜」と「ここはお国を何百里…」であった。お陰でいまでも覚えている。「万朶の桜」とはしだれて沢山咲いているという事らしい。
万朶の桜 歩兵の本領
1. 万朶の桜か襟の色 花は吉野にあらし吹く 大和男子(おのこ)と生まれては散兵線の花と散れ
2. 尺余の銃は武器ならず 寸余のつるぎ何かせん 知らずやここに二千年きたえ鍛えし大和魂
作詞 加藤明勝 作曲 永井建子 藤山一郎 歌 10番まである
戦争してはならない。けれどあの兵隊さん達はどうしたのだろうか。太平洋戦争が始まり敗戦の中にくらしても何かにつけて思い出すのはこの歌だった。
振り返ってみて、まだまだ小さい頃の思い出のかけらが冬木町にはある。仙台堀の流れと共に忘れることはないだろう。
うなぎの相金さん(昼近くになるといい匂いが道にただよった)餅菓子の翁や、角の交番のお巡りさん一家、岡田屋さん、服部さんの子供達、家の前の三陽自動車。そこは私の小さい時は堀で材木が浮いていた。それが埋め立てられて原っぱに、よく草を摘みに行った。その土地を父が買い、次に自動車会社に売ったとか…。時は流れ、令和の今なんとか私は生きている。
おつねさん。
大事な人を忘れてしまった、勝浦のおつねさんの事だ。おつねさんは私が生まれる前から家のお手伝いさんで、始めはおばあちゃんと常盤町に住んでいて、いざ私が生まれるとなった時、赤ちゃん用の布団を一式大風呂敷につつみ背負って冬木町まで持ってきた、というのが私との出会いである。
文化さんという人形が大中小とあってままごとをして遊んだ。遊ばせといて自分は見てるだけ…とおつねさんは笑った。一日中おつねさんの事をつねやつねやと云って離れなかった、本当にやさしい人だった。年頃になってつねやに縁談があり、お嫁に行くことになった。今までの労をねぎらい、父母は箪笥とか嫁入り道具をお祝いした。いざ勝浦に帰る日、私に見つかると大変だと早く早くいまのうちと、母が私を遊ばせているうちにおつねさんは家を出た。何となくその時の事を後で聞いたのか見たのか自分は知っていたような気がする。
戦争中、川津のおつねさんの実家にやっかいになり、冬木町に家が再建されるまでお世話になった。おつねさんのお母さんのおくにさんがたしか牛込のおじいちゃんの親戚という関係だったと思う。
勝浦の在の大楠という所に母と着物を持って食料と替えに行った事もあったっけ。母が桂子をおぶい、私が籠をしょって行ったのも思い出。おつねさんが亡くなった時、父と母とおくやみに行ったのも、もう何十年前だろうか。
岩瀬家。
岩瀬家の出身は勝浦の在である。おじいちゃん(郡司さん)は東京へ出て肉屋の修業し、牛込の箪笥町に岩瀬本店を出し、肉をニューグランドや学士会館に納め、千葉県の出世頭として新聞にも載ったそうな。
おばあちゃんは後妻であった。龍ちゃんという長男が先妻の子としていたが、自分は二人の息子と三人の娘、先妻の子を育て、お店では帳場に座って会計もし、内助の功の立派な人だったと私は思う。そして今でいう教育ママだった。当時は少なかった女学校へ三人の娘を通わせ、三男は東大へ、二男の真司治おじさんは中学を出て家業を継いだ。
二人とも若い人をよく世話する人で、息子の友人の軍人さんとか学生さんをお手のものの牛肉すきやきパーティをよく開いていた。
庭に大きな杏の木があり、おいしい実がたくさんなった。毎年杏ジュースをたくさん作り、その中の実を食べるのがたのしみだった。
祖父のいて 杏花咲く 古き家
仙台堀。
店の向こうは仙台堀、亀久橋の上からも、川に面した納屋からも毎日のように眺めた。夏から秋は鯊(はぜ)が上がって来てあちこちではねた。昔は水がきれいだった。泳ぐ人もいた。
舟から材木を陸の納屋に上げるには板を舟と納屋に渡して長い材木をかつぎ、ゆさゆさと調子をとって運ぶ。慣れないとできない仕事だ。時にはバランスをくずし、材木ごと川に落ちることもあり、遠くからヒヤヒヤしながら見ていた。落ちた時の用心に泳げなくてはならない。小僧さんの体に荒縄をしばって川の中にほうり投げる、泳げない小僧さんは夢中で水をかく、それで段々泳げるようになる荒療治だった。わたしが見たのでその犠牲になったのが茂どんだった。彼は根性があったのか泳げるようになり、一人前の材木屋になった。
亀久橋から一寸上流で仙台堀は曲がる。その辺りに四ツ手網をかけるひとがいた。果たして釣果があったのか見た事はない。
仙台堀は江戸時代、仙台様(伊達家)の蔵屋敷が並んでいたのでその名がついたとか。今でも時代物の小説によくあの辺りが出てくるのでなつかしい。
亀久橋はゴッツイ感じの鉄の橋だが、東京で唯一のステンドグラスのついている橋として有名だ。
ご近所。
皆が小学生だった頃、亀久橋の角には小さな交番があり、お巡りさん一家が住んでいました。奥さんが編み物上手でよく皆のセーター等編んでくれました。「尾崎さんのとこの子は皆手が長い」と笑ったものです。
やはりその頃だと思いますが八幡様のお祭りも盛大でした。家の前の福砂通りにおみこしが勢揃いした事もあります。おそろいの浴衣を着たお父さん、春生も小さい祭半てんを着せられて…。親戚の子も呼んでにぎやかでした。覚えていますか…。門につるした提灯もなつかしい物です。
玄関の石だたみには打水がしてあります。お父さんが打水が好きだったからです。どこかへ出かけた時、帰る頃になると、お母さんは「水を撒いて」誰かに云います。撒いてあれば御機嫌なのです。
或る日、学校の家庭訪問で宮島先生が立ち寄られ、父が「皆まかせてありますんで」と先生に言っていました。一寸通って聞きかじった私は「そんなもんかなー」とその時は思いました。
「キャンデヤチャン」。
夏の日、子供達は玄関の前で遊んでいました。自転車に木の箱をつけ、小旗をたてたキャンデー屋さんが鈴を鳴らして通ります。普段からアイスキャンデーは禁じられていました。おなかをこわすといけないから。
その時桂子が叫びました、「キャンデヤチャン、クダチャイ」。皆びっくりし、母が飛び出してきて、お金を払ったのでしょう。暑さとキャンデーの魅力にがまんできなかったのでしょう。その声が可愛くていつまでも忘れられません。桂子三つ位の時でしょうか。
キャサリンとかキティ台風が来たのもその頃だったでしょうか。床上浸水で戸棚の段?にのって避難しました。昔から水が良く出た深川育ちなのでお父さんはテキパキと指示していました。お風呂場の水たまりに夜光虫がいっぱいに光って浮き、きれいでした。
その後私は結婚して神田に行ってしまい、皆の小中学校時代の事はよく解りません。
広さんは初めての男の子で大事にされたせいか一寸気むずかしくて、小学一年生の時、登校拒否でお母さんを悩ませたようです。理由はトイレが汚いからとか…。次男の孝さんは次男らしく、福引づくりが上手なトコちゃん、男の子の友達の多いチャアちゃん、桂子、春ちゃん、皆元気で嬉しいことです。2024年10月4日に退院しました。チャアちゃんに励まされて、又、思い出してみましょう。
戦中戦後のこと。
戦時中から戦後しばらくは家中で勝浦にお世話になり、桂子も川津の家で産まれました。勝浦の町中の家を借りて住んだ後、お祭りがあり、女の子は浴衣を着せてもらい口紅をつけてもらいました。三つ四つの子供達が皆くちびるをとんがらせて立っているので、おかしくて聞いたら、口紅がおちないようにしているのだと言うので大笑したのを覚えています。とぎれとぎれの記憶の中、かわいい紅色の思い出です。
食糧難は勝浦にもあり、食糧と着物を替えてもらいに在まで行きました。お母さんは桂子をおんぶして、わたしは大きな「しょいかご」をしょって駅の裏山を在まで登って行きました。果たして取り替えられたのか、忘れてしまいました。さつま芋の配給がどっさりあり例のしょい籠をしょってもらいに行き、あまりの重さに足が上がらず裏の木戸をまたげない事もありました。そんな事が頭をよぎします。勝浦を去るとき、駅に近所のおばさん達が大勢送りに来てくれました。それもお母さんの日頃の暮らしのせいであったのではと思います。今だにテレビで勝浦の事が出るれました。それもお母さんの日頃の暮らしのせいであったのではと思います。今だにテレビで勝浦の事が出るたびに見てしまいます。
戦争が終わりたぶん昭和22年に冬木町に戻れました。新しい家が迎えてくれました。これもお父さんの苦労の賜ものだと思います。
春生が産まれ、お産婆さんの家からお手伝いさんと母が春生を抱いて帰ってくるのを家の前で待っていました。冬木橋の上にそれらしい人影が見えて駆け出していきました。おんぶが出来るようになって、春生をおぶって毎日のように仲町までお使いに行き、自分の子どもではないかと他人に思われはしないかと内心心配でした。何しろ20歳以上離れているのですから。
府立第二高女時代。
私はと言うと幼稚園で戦争が始まり、小学校、高女時代と続き、やっと終わったのが高女卒業の前年八月十五日、昭和二十年の三月まで学校には行ったものの、何をしていたのか忘れてしまいました。
多分学校も家の中も戦後処理と食糧不足でごちゃごちゃだったのでしょう。でも、でもです。
私の人生にとって、今振り返ってみると一番思いで深く、楽しい事を思い出されるのは府立第二高女時代です。あの5年間は私にとって宝物です。すてきなお友達たちに巡り合い、前半の三年生頃まで運動会も普通に開かれ、父も見に来てくれました。たしか11月7日に毎年開催なので一寸寒かったと覚えています。もう修学旅行どころではなく、遠足と言えば、「剛健遠足」と名付けた歩く会。新宿から八王子、秋葉原?から浦和の県立高校までとか、後は忘れましたが三、四回は朝早く集合、帰りは夜でした。学校は女子師範と併立でしたから学校長も同じ方、何をするにも師範の年上の方たちと同じでした。校門を出入りするときのおじぎ、誰が始めたのか、対象は何なのか、誰も自分を納得させて習慣になっていました。
校門中央に大きな立派なヒマラヤ杉、両側の沈丁花の列、大きな泰山木の白い花、目に見えるようです。校庭に1m位出ている犬走りも新入生には目づらしいものでした。体操の時間にナギナタを習ったり、軍列行進に軍隊の将校が見学していたり戦争は身近でした。慰問文集を集めるためグループに分かれて伝通院前の写真やさんで写真をとり、慰問文を書いて送りました。ところがそれを乗せた船が攻撃されて沈没、あんなに一生懸命作ったのにわたしたちの写真も海底に沈んだのでした。
空襲の中で。
三月十日、東京大空襲、まだ目の前にあの焼け跡が浮かびます。
防空壕にいったんは入ったものの、あぶないというのでお父さんは先に逃げろと、私に言いました。おばあちゃんと広を連れて火の粉の降る中、私は明治小学校へ行こうと思い学校の入り口まで来たら一ぱいだと云って入れてくれません。仕方なく電車通りに出て海辺橋のところまで来たら消防が平野警察署に盛んに水をかけていました。警察を焼かない為かと思いました。海辺橋を渡るとすぐ清澄庭園の入口があり、中に大勢の人がいたので入ってみたら、顔見知りの方や岡田屋さんの叔母さんが見えたのでほっとして避難民の仲間に入りました。外は風が渦を巻き、公園の中の人はどうすればよいのかうろうろするばかりです。そのうち夜が明けてB29も去り、砂町の方まで見渡せる焼け野原が目に飛び込んできたのです。「冬木町の人は明治学校に来てください」との声に、学校へ行くと私たちを焼死体をひっくり返してさがしたと云う父とあうことができました。
自転車を持ってきた父の荷台には、私の大事な小さい時のアルバムが結わえてあり感激しました。
それからが大変です。年寄りとランドセルをしょった広さんは煙で目が痛いと泣いています。やっと歩いている豊子はブスッと黙っています。これから牛込まで歩いていくのです。自転車の荷台にはかわるがわる乗せたりして行きました。途中永代橋の辺りで蒸し焼になった卵を配ってくれ有難くゆで卵をいただきました。関東大震災にも空襲にも焼けなかった牛込の家も大勢で大変だった事でしょう。
それから二、三日しておばあちゃん達を勝浦に送り、私と父は冬木町まで自転車で毎日通い焼け跡の整理とか罹災証明書の交付にかけ回り、その道すがら道路や公園、お寺の墓地などで多くの真っ黒こげの木が横たわっているのを見ました。木でなく人だったのです。
金庫を専門家に開けてもらったり、大きなカメを焼け跡から掘り出したら、底の方に梅干が入っていました。落ち着いてから私は勝浦に行き、みんなといっしょになりました。
そうそう女学校を出て空襲まで私は海軍省の理事生として霞が関と日吉の壕の中に勤務していました。寄宿先は始めは王子の尾崎幸太郎さんの家から通わせてもらいましたが、その家も次の空襲で焼けてしまい、鎌倉の父の本当の本当の姉に当たる人の家からです。その名はお雪さん、わたしはよく似ているといわれました。一寸大柄でパキパキ物を言う方でした。種徳さん(たねのり)のお母さんです。終戦後間もなく海軍省を止め、勝浦に行き冬木町に帰るまで住んでいました。
海軍省には試験を受けて入りました。難関だったのですよ。玄関先で米内(よない)海軍大臣をお見かけした事もあります。日比谷公園の中で新入者は手旗信号を教えられ、旗を持たされて練習させられました。何の役にたったのでしょう。日吉の壕の中の仕事は私は士官候補生の名簿、そして特攻隊の回天乗組員の名簿などの事務でした。今で思えば申し訳ない仕事をしていたと思ひ、回天の乗組員の方々のご冥福を祈るのみです。
今の若者には絶対に経験する事のない、又あってはならない出来事をしてきたのです。山を掘った壕の中に事務机を並べて仕事し、壁には変な虫が歩いていました。
とりとめのない話で申し訳ありません。まだ何か思い出すでしょうが又、思い出して私も感謝しています。
私達にはまだ、俶子ちゃん(よしこ)と信ちゃん(まこと)と云う幼くして亡くなった姉弟がいた事を忘れずに、皆元気で頑張りましょう。
鎌倉の別荘にいた頃の腰し折れです。
秋深し「鎌倉文庫」このあたり
文士の人たちが集めた小さな古本屋さんが檀かずらの道に沿ってあり、有名作家の奥さん達が店番をしていました。外に本やさんもなく、よく通いました。
一旦、終わり。