2024月11月号

『北の零年』モデル入植者リーダーのDNAを辿って。

『北の零年』モデル入植者リーダーのDNAを辿って

うだるような残暑つづく9月半ば、7年ぶりに北海道の墓参りにいった。
長らく夫の介護に捕らわれていたが、今春ついに施設にあずけることになっての旅である。
私を育ててくれた熊本の祖母が亡くなって、7年前に北海道の墓に納骨して以来、ずっとインテリアデザイナーで札幌在住の従妹にまかせっきりできていた。

私の母方のルーツは、北海道日高郡静内で、2005年『北の零年』という吉永小百合、渡辺謙らが出演した映画(行定勲監督)のモデルとされる徳島藩淡路島からの入植者である。
明治4年の廃藩置県で、その前年に家老に付き従って開拓にきた士族らは、突然もう帰郷しても居場所がなくなったのだ。

冬でも温暖で作物が実り、明石、鳴門海峡の海産物に恵まれて代々「天皇の御食都国」とされてきた淡路島は、そこを収める家老の稲田家の正室が公家の出であったため勤王派だった。
だが、徳島藩の藩主の蜂須賀斉裕は11代将軍家斉の子で、15代将軍慶喜の叔父にあたるから公武合体派である。
江戸から明治への転換期に、藩主と家老の対立・確執が尾を引き、北海道への入植が制裁のように命じられたふしがある。

結局1~3便の船で来た先発隊546人で日高国静内と千島の色丹島を管轄地として、岩倉具視のお情けか?新政府から年間わずか1万3千5百石を10年だけの援助で生きのびるしかなくなったという。
米はおろか野菜も満足にできない極寒冷の未開の土地で、原野の木を切り倒し開拓に賭けるしかない、飢えと雪まみれの寒さの暮らしがどんなに大変だったかは、あの映画を観るまで私にはあまり想像できていなかった。
はじめは野生の道産子の馬たちが開拓労働の助けともなり、また生活を支える酪農となったようだが、時代も変わり、現在日高郡はサラブレット銀座と称される道路の両側に、競走馬の育成牧場が数十も連なる観光名所となっている。
久しぶりのあの広々とした風景が楽しみだった。

ところが、まず今度の旅では、航空券で戸惑った。
えっ、いつから紙のチッケトはなくなり、スマホに送られてきたデータを搭乗口で見せるだけになったの!
もしスマホを置き忘れたらどうなるんだろう?
息子と娘の分も一緒なのに、私のスマホだけとは心許ない。
(受付に頼むと、一応チケット3枚印刷してくれたが、、、ひと手間だ)

千歳空港まで迎えに来てくれた従妹は、「飛行機だいぶ遅れて着いたから、急いで静内に向かうね」と私たちを彼女の車に乗せるや、道央自動車道の苫小牧から、道南方向の三角形の先端の襟裳岬に向かう国道をぶっ飛ばしていく。
ほどなく車道の右側に見え始めた海を見ていたら、夫が元気だった頃この道を、子供たちをレンタカーに乗せてビュンビュン走らせ静内に向かったのを思い出す。
あれは25年も前だったろうか?
キラキラ輝いている波に、そんな苦い想いが打ち寄せてくる。
「あら、日高線の線路まだ残っているのね?」
「和子さん、日高本線は2015年に暴風高波で被災して復旧工事するかどうか検討されていたけど、21年にはついに廃線よ。撤去費用も大変だから、線路はそのまま」
20代の頃に来た時は、この海辺にずーっと沿って走るJR日高本線の汽車に一人で乗っていた。ところどころ砂利の浜辺には、昆布が長々と並べて干されていたっけ。

そういえば、徳島藩の筆頭家老の稲田邦植の従者として家老の3男を養子にし、静内に居残った。
我がルーツの武岡家の息子の清吉は、移住当時17歳で、1年間外国の農機具を使う研修生となり農業開拓のリーダー的存在になっていったという。
そして、やがて商業へも手を広げていき、清吉の姉妹は、牧場を始めた藤原家や、網元の佐野家などへと嫁いでいる。
私の血縁の本当の祖母である喜久は、武岡清吉の11人もの子共のうちの7女だ。
足軽から漁業権をまとめて藤原家からハマ(曾祖母)が嫁入りした網元の佐野家に嫁ぎ、その長女静子が私の母である。

漁業に加え、佐野家もきっと日高昆布を干し重要な生計の糧としていったのだろう。
「わあ~、あれ稲田だよね、昔あんなのぜんぜん無かったよね」左側には、たわわな稲穂の黄色い稲田が続いて、もう稲刈りされたところもある。
「品種改良と温暖化のおかげで、「ゆめぴりか」「ななつぼし」「ふっくりんか」など、北海道米は最近は味も特Aをとるほど美味しくなってるのよ」。 昔、米がこんなに穫れたなら、どんなに助かったことだろう。

映画では、豊川悦司は五稜郭の敗残兵で、アイヌの中に身を隠していた。
親族の中には、本当に五稜郭で討ち死にした者がいたそうだ。
また新政府側に取り込まれ開拓のリーダー格の夫は帰れなくなり、女手だけで娘を育て牧場を守る吉永小百合を助けるカッコイイ豊川が現れて、牧場を成功させていく展開。
また、ひもじさからに、えげつない商人に身を投げだしてしまう妻の姿など、まあ映画では、ありそうな事ない事の虚実取り混ぜてドラマチックなストーリーになっている。
ネットで調べてみると、静内の方々からだろうか?
「あの映画はひどい!」とお怒りの意見も多いが、まあ想像をかきたてる心象風景は映画ならではの効果だと思う。

ほぼ一時間半過ぎて、新冠~静内のサラブレット銀座通りにさしかかる。
もう4時近くで、馬たちは帰りはじめて数は少なかったが、車を降りた。青々と広がる牧場から吹き渡るさわやかな風に、思わず一同深呼吸したくなる。
ここでは血統書つきの海外などからも高値で導入した種馬から仔馬を生ませ、広々とした牧場で母親と共にのびのびと育てられている。
レースにデビューするのは、競走馬として調教されてからだ。
藤原の先代のお婆様は、テレビの競馬場の中継で育てていた馬がムチ打たれて走るのを見ると、「可哀そう!」と観るのを嫌がったと聞いたことがある。

「藤原牧場の幸子さん亡くなってもう7年かな、今日明日はちょうど馬のセリがある大事な日で忙しいようだから、ご主人に挨拶だけして、お墓参りだけしようね」
緑深い木立の中に、徳島風の灯篭の建つ藤原家の古墓には、明治3年着いたばかりの年代からの墓碑銘がズラリ刻まれて、結婚式にも来てくれた従妹の幸子さんの名は、新しい石版に。
墓地が金網フェンスに囲まれているのは、周りの林から熊や鹿が時々やって来るからだそうだ。
「おお、こわ!北海道らしい」
幸子さんが残した3人の息子たちに会えずに残念だったが、誰かがきっと、次世代の牧場の後継者になるのだろう。

藤原牧場には、私を育ててくれた祖父佐野の弟が養子に入り、私の母静子の妹・京子叔母が養女になっている。
妻の喜久が4人の子供を残して早死にしたため、満州には長女長男2人を連れて渡り、まだ幼い次男次女2人を、武岡家と藤原家に養子と養女にやったのである。
つまり産めよ増やせよと、巻物になっている武岡家からの長々した家系図には、あちこち養子や養女、とり婿とり嫁、分家などが錯綜していて、頭がこんがらがってしまう。

私は戦後、満洲からの引き揚げの中で産まれ、父は戦死して、帰国した後に母も病死した。
祖父が満州で再婚した女性(血の繋がらない祖母)は熊本の出身だった。
その縁もあって、北海道に一旦は戻ったものの、満州時代の知己の誘いで移り住んだ九州福岡市で、私は祖父母に育てられて高校までを過ごしている、北海道ははるか遠かった。

若い頃は「家系図なんて今さら意味ない!」と、てんで興味もなかったのだが、しかし、この年になると、DNAの不思議な繋がりかと思わせる個性やら、思い当たる出来事が幾つかあり、ルーツというものを辿ってみたくなるものらしい。
従妹も同じような想いなのか、従妹から今回は「開拓の村」を息子娘にも見せておいたら?と、勧められたのだ。

次の日の朝、札幌のホテルまで迎えに来た従妹が、まずは北広島の佐野家のお墓に車で連れていってくれた。
北広島は千歳空港と札幌の間にある。
2023年に日本ハムファイターズの新しい球場・エスコンフイールドが建ち、その巨大な可動式屋根の姿が目をひく近代的な建築は、北広島の駅からすぐ近くに見えた。
これから賑やかになっていく街だろう。

東京の丸の内ビルにあった「北信連」の支店長だった叔父が退職して19年前北海道に戻り、北広島に家を新築した時に、北広島市の郊外の公営の新しいスタイルの墓地に、静内の古い佐野家の墓を新しく移し変えていた。
そこは四角い平たい墓石がスッキリ西洋風に整然と並ぶ広々とした墓地で、管理費なし。
市役所に墓じまいの費用のことを事前に電話で問合わせたら、墓に入れた1体約2・7万円×5名=13万5千円、墓石の撤去費用は24万程で、全てのお骨はこんもりした丘に埋葬されるという。
今後多少値上がりするとしても、40万内で収まりそうだ。
お寺の費用もかからない!これ位なら、いつの日にか関係者が、お互い折半しても苦になる額じゃないと、ホッとする。
「ここから近い新札幌駅の近くの開拓の村までみんなを送って、そのあと私は今日東京で午後の仕事があるから千歳空港に向かうわね」

野外博物館・「北海道 開拓の村」には明治から大正の開拓時代の様々な建物が移築され、当時の生活が再現されている。
赤い屋根の旧札幌停車場から入場すると、白いステキな洋館の旧開拓本庁舎、工業局などの庁舎、新聞社などは立派で、いかにも新政府が北海道をロシアやヨーロッパの近代風に仕立て上げたかったかが判る。
だが、そば屋、菓子屋、病院、写真館、有島武郎の家、馬車や馬ぞり車両や、鉄工農具の製造業などの街並みは、ひなびたなつかしさで、漁村の舟屋や、養蚕倉、酪農畜舎などなどは当時の暮らしの苦労を思わせる。
北海中学校や、あの「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士がいた札幌農学校の寄宿舎も並んでいた。

武岡家は、馬車道の中ほどにあり、立て看板には、静内の街の中心的役割を果たした商家と説明があった。
私の祖母が住み、母や叔父たちが育てられた武岡家の表の店は、米、塩、味噌、石炭、石油、医薬品、酒、呉服、たばこ、食料品を扱う今のコンビニのようなものだが、当時としては画期的で北海道では珍しく、百貨店と呼ばれたらしい。
店の奥に住居と広い庭があり、すぐそばでは権利を買って郵便局もやっていたらしい。

「墓じまいの件は、また今度にしましょう!私はここでサヨナラ」片手をひらひらさせて、従妹はアクセルを踏んで笑顔でさあーと行ってしまった。 帰りの飛行機の窓から、雲一面を赤々と染めながら、丸くポカッリ浮かんだまま、、、
ゆっくり雲上に沈んでいく夕陽が、息を飲むほど美しかった。

今回叔母にもらった祖父母と両親の結婚式の写真。満洲からの引き揚げで亡くなっていた。
開拓村
「開拓村」に移築された武岡商店の前で。
飛行機から見えた赤く雲上を染める夕日。
工藤和子
アンダーグラウンド演劇活動の後、フリーライターとして「泣きべそママは旅に出た」「おいしい安全食ガイド」など。 熊本の祖母の介護に通い仕事をやめ、中目黒から中野区に移転。 「野方朗読の会」で古典、朗読会の他、図書館で子供に読み聞かせボランティア活動。 介護の気分転換と健康のためにフラを13年続けてきた。