年輪を重ねて気づく日本人の美しさ
年輪を重ねて気づく日本人の美しさ
9月を迎えても東京は残暑の日々が続くが、八ヶ岳は本格的なきのこシーズンを迎える。
きのこ採り(撮り)は楽しいけれど、私は原生林の主である巨木の再会に胸が躍る。
若い頃はブナの森が専門だった。
近郊の沼田、水上、遠くは桧枝岐、白神山地や妙高と現在も残る原生林に足繁く通った。ブナ山は遠くから眺めると、森にポッカリ穴が開いている場所がある。
そこには何百年も生きて遂に倒れたブナの大木が転がっていた。ブナハリ、ナラタケ、ナメコと何年もかけ次々と、倒木にはきのこが発生する。
そして最後はボロボロになり土に還っていく。でも倒れた親木の傍らは、あちこちに必ず若木が生まれていた。
若木が育つには太陽の光が必要で、親木は自分が倒れて森に光を注ぎ入れ、自らの身を腐らせて若木の栄養分になる。その手伝いをするのが腐敗菌のきのこの役目。
土に帰りながら、古木はきのこを食べる動物や虫(私達人間も)をも生かし、若木を育て次世代に多くの命を復活させる。
この壮大なドラマを長年眺めながら、私はクリスマスのお菓子「ブッシュ・ド・ノエル」の”命の復活”の意味を知った。若かった私は遠い自らの老いも、かくも謙虚に美しくありたいと願ったものだ。
さて森の巨木の話に戻る。
終戦直後、都市近郊の山の木は家作りの材木になった。江戸時代から供給地の秩父の山は、この時深い森の巨木まで殆ど伐採され、荒川に流して東京に運ばれ(木流し方式)、森の木々は全滅近くなる。都市復興を急ぐ為大量伐採が必須だったのだ。
八ヶ岳も例に漏れず、営林署は巨木伐採に励んで、川に流した後トロッコで駅まで運んで貨物に乗せ、戦災で焼け野原の都市へ届けた。
16歳から森の伐採下働きをし、戦後はトロッコ乗りだった、我々のきのこ師匠は折ある毎にこの時代を詳しく語ってくれた。
その後小学生だった地元の友達は学校指導の下、全員で伐採後の森へカラマツ植林に行ったそうだ。信州にカラマツ林が多いのはこの為だ。
”カラマツは早く真っ直ぐに伸びて高く売れる”が理由らしいが、外観は真っ直ぐでも中はねじれて、結果柱や材木には成らない代物だ。
が、近年はラワン材代用に、コンパネ等ベニヤ板に使用され少し価値が出たらしい。カラマツには地元民大好物のハナイグチ(ジコボウ)というきのこが発生する。ジコボウが欲しくて植えたんじゃない?と私は心秘かに笑う。
私達都会人は材木で家を作る事は分かるが、それは切り身の魚やステーキ肉と同じ感覚。
ある時、山小屋の薪財を頂きに、友人の指揮する伐採現場を訪れる機会を得た。現地で伐られ横たわる大木を目にし、私はショックを受ける。
古来日本人は木の家に住み、箸や器、箪笥等木工品を使い、薪で暖をとり、木とは馴染み深い。それは長く風説に耐えて生き抜いた木の命を頂いて、生活してきたという事なのだ。
伐採する友人達は、森の主と思われる巨木を切る前に木の周りに塩と酒を撒き、伐採後も同様に感謝を奉げる。
「結局人間は全ての命を頂いて生きているんだ。それを忘れてはいけない」彼らは言う。
町暮らしは森の巨木を見る機会はないが、木の命への感謝を忘れず日々を過ごしたい。
この土地(諏訪エリア)で何百年も続く”御柱祭”も、巨木を神と敬う人々の心に思える。
余談になるが、熊野の”浮島の森”を長く管理し愛した友人も、木々に心を寄せていた。
「木は偉いんやで。お日様の光をみんなで譲り合い、分け合って葉を広げる。人間も見習わなくては」と訪れる学校の生徒達や人々に、繰り返し話したものだった。
私は巨木に出会うと必ず耳を当て、その鼓動を聞くのが好きだ。その時は私の心臓もドキドキする。ブナは微かだけどサラサラと清らかな水の流れる音が聞こえる。
クロアチアはヨーロッパで数少ないオークの巨木が残った国だ。
ナシッチのきのこグループのボス・フルブェが連れて行った公園に残る、大の男数人でも抱えられないオークは圧倒的大きさだった。私はそっと耳を当てた。
ゴーッと地の底から這い上がる力強くも恐ろしい鼓動を感じる。仲間の巨木は全て切られ、ただ一本残された孤独なシンボルツリーだ。悲しみとも絶望とも思える深い叫びだった。
木は確かに生きていて語ってくれる。人々がもし巨木に出会ったら、その長い年月の物語に耳を傾けてほしいと願う。
左は市の実力者フルブェ、右は旅の案内をした親友
ムラデン。
マッシュルーム&ワイルドグラスハンター&クッキング エッセイスト
20代から家族で”週末スローライフ”を続け、アウトドア生活で日本各地を巡る。野草や山菜採り・きのこ採り等を通じ、食毒の見極めや自然へのマナーを覚える。各地元民と親しく交流、その地の慣習や郷土料理を直接学ぶ。各国に友人が多く、その国の各家に伝わる家庭料理の歴史や意味を学び、民族料理研究を楽しむ。趣味はきのこ透明水彩画。