子供心に刻まれた沖縄がある。国際通り、ガーブ川沿い、スージワー。
子供心に刻まれた沖縄がある。国際通り、ガーブ川沿い、スージワー。
「I LOVE OKINAWA」とお題を頂戴して 悩んでしまった。
さて、何から何を書き始めたらいいのか?
OKINAWAの入域観光客数は新型コロナウィルス以降V字回復を遂げ、2023年度は800万人を超えて、前年比45%増となっています。
しかし、沖縄は、青い海、青い空、常夏の島というリゾート面だけではなく、小さな幸せを願いながらも叶わない側面もあり、なかなか悩ましいところではあります。
まずは、子供時代に遊んでいた国際通り、観光客が一度は訪れる場所、奇跡の1マイルと呼ばれている戦後復興の象徴である国際通り。
国際通りは、戦前、那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道として整備された新県道(牧志街道)郊外の一本道で、人家は少なく畑や湿地帯が広がっていたと言う。
母の話によれば「あんな追剥が出そうな場所へ何故引っ越す」と、そのころ住んでいた周りの人達に止められたそうです。
終戦後は、米軍により従前の那覇の中心地(現在の那覇市西・久米・辻付近)など多くが接収され人々は行き場を失ってしまいました。
1945年11月、まず壺屋町が産業復興の名目で窯業関係者、瓦職人たち。
1946年5月に牧志が解放され、1949年にかけて他の地域も段階的に解放されてきたようです。
そして国際通りを横切るガーブ川(我部川)今では暗渠となっている部分が多くなっています。行政上は、河川ではなく公共下水道雨水施設(排水路)。
戦後市民生活がままならない時代に開南一帯に闇市ができ県内各地から肉や野菜、アメリカ軍の払い下げ商品などが集まる場所となったようです。
闇市を合法化し1948年公設市場ができ、そこに入れなかった商人達が、ガーブ川沿いにバラックを建てたことで「ガーブ川商店街」水上店舗ができたようです。
移り住んだ1954年頃から、国際通りが遊び場でした。
特に私が住んでいたガーブ川近辺は、国際通りの臍、一番低いところで、台風がやってくると年中行事のようにガーブ川が氾濫、床上浸水。
大人たちは手際よく畳などをポンポンと台の上乗せ、水が引いたら水道水で洗い流す。
今から考えると不衛生極まりないのですが、そのうち親戚からお結びやらお菓子やらの差し入れがあり、不謹慎ではありますが子供心にうきうきと楽しいイベントでした。
まだ空き地が多く、通りと裏のお墓までが子供たちの遊び場。
何処からともなく子供たちが集まっては、缶蹴り、縄跳び等、また、色々なものを拾い持ち寄り小屋作り。
夢中になって遊んでいましたが、気が付くと隣もその隣も、びっしりと家が立ち並びどんどん閉め出され遊び場は、国際通りと裏のお墓だけになってしまいました。
それでも子供の私たちはスージワー(路地)からスージワー(路地)へと鬼ごっこやカクレンボ、建物から建物を時には、お店の中も通り抜け「またこの子達は」と小言を言われながらも大人の寛容さもあり、ぐるぐるぐるぐる駆け回り遊んでいました。
国際通りは、現在はヤシの木が植えられていますが、那覇市広報誌「市民の声」(2006年)によると1956年、那覇都市計画助言のため来島した首都圏建設委員会が帰京後、戦災ですっかり緑を失った那覇の街に「銀座の柳」をと、その当時の那覇市長に頼まれて東京の銀座通り連合会に話を持ちかけ、1956年6月18日100本の柳の苗が寄贈されたそうです。
私が移り住んで2年後、太平洋戦争の地上戦からわずか11年後。
その頃の国際通りは、バス、自動車に混じって馬車もあり、まだまだゆったりと時は流れていました。夕方になると打ち水をし、何処からともなく風が吹き、柳がそよぎ、涼を感じたものでした。
戦後の焼け野原から賑わいを見せ始めた国際通りに欠かせない娯楽の一つが劇場、映画館。1948年に「アニー・パイル国際劇場」が、現在のてんぷす館が建つ場所に誕生しました。
国際通りの名前の由来もこのシンボル的な建物の名前からきているようです。
この「アニー・パイル国際劇場」は、沖縄戦の従軍記者で伊江島で命を落としたアニー・パイル氏の名前を取り「国際」に平和の願いを込め名づけられたそうです。
野中の1本道から始まった国際通りで幼少期から暮らしていた私たち子供は、沖縄のそれまで培ってきた文化的なものを享受しないまま「文化不毛地帯」で過ごしてきたようです。地域の祭りも唄、三線、カチャーシーも何も無いところでした。
私の親しい国際通り界隈の小学校からの友人のほぼ全員がカチャーシーさえ踊れない。
今の那覇の祭り、那覇大綱引き(1971年)那覇ハーリー(1972年)等も日本復帰前後の復活です。沖縄には時々帰りますが、タイミングが合わずハーリーもエイサーもまだ見たことがありません。
また、那覇に人が集中して、人口密度はかなりだったようです。
私の通った中学校でも、1クラス70人余り、21クラスあり劣悪な環境でした。
これはひとえに行政の怠慢と思い込んでおりましたが、どんどんどんどん人が集まりすぎて行政も対応ができなかったようです。
そのころ戦災で家を失った人々の為に建てられた戦災復興住宅「企画住宅(キカクヤー)」は、米軍支給の角材(2×4インチ、)で骨格を組み、壁・屋根をテントで作った6.33坪の住宅だったそうです。
この原稿を書くに至りネットでいろいろ調べていたら、沖縄の風景「那覇スージ八選」を見つけました。
やはり自然発生的にできた牧志、壺屋、松尾など国際通り近辺にスージが多くみられます。解放が遅くなった所、私の祖父母が住んでいた前島の通りは、碁盤の目のように整然としてますが・・・。
それでもスージは、魅力的なで大好きです。
小学校の帰り道は、わざわざスージワーを通ったことを思い出します。
新嘉喜祐司氏所蔵と那覇市歴史博物館所蔵
むつみ橋(ガーブ橋)より旧山形屋に向けてのぞむ国際通り
那覇市歴史博物館所蔵(右側通行)
今では国際通りは、何処も彼処も市場の中も土産物屋となり生活者には不便な地域となっているようだ。
大切な友が、旅立ってから早いもので1年余り。
作家であつた彼女と過ごした日々が、ぎらぎらと照り付ける熱い太陽のもとで思い出される。彼女との記憶を紡ぐと、国際通りとガーブ川は外せない。
彼女は、国際通りからほんの少し入った処で沖縄料理の居酒屋をしていた。私は沖縄へ帰るたびに彼女の店へ寄り、子供時代に共に過ごした「国際通り」談議に花を咲かせた。
彼女はいつも「ここは、ポツンと1軒屋だよ」と言っていた。
職住一体であった国際通りの様変わりを身もって体験していたのだろう。
「神宮前で女性4人の設計事務所、インテリアデザイン担当。
親や姉妹よりも長いお付き合いになりました。
写真は、亡くなった友人と「遺影」の取りっこで友人が撮ってくれたものです。」(岩崎談)