む!そうは問屋がおろさない
む!そうは問屋がおろさない
今年の年賀状に「暖簾を下ろして隠居見習いになります」と添え書きしたときには、これから起こることがわかっていなかった。
75になったら仕事を畳もうと決めていた。そこにクライアントからそう言わずにと新規の話があり一年先延ばしになった。
でも、もう本当に終わりにしなきゃ。ここに来て“事故り”たくない。世間にも名の知れた優秀な先輩方のあんなことやこんなこと思うと、桑原クワバラと年賀状で公言することにしたのだった。
いや、じつは考えないようにしていたが、ツレアイの劣化が危険信号状態だった。
何かあったら仕事に集中できなくなる。アブナイアブナイとイヤな予感があった。が、それでも軽く考えたい私自身のバイヤスがかかっていた。
ツレアイは7月に誕生日を迎えると83歳。定年になって閑職を数年勤め、その頃から週に何度か地元の夜間中学で得意の算数・数学、ごく初歩の英語、社会科で世の中の仕組み教えるボランティアをし、ウチではネットで深夜まで趣味の株をしていた。
私の仕事は実用書の編集で半分居職。子供が巣立ったから幸い各自が余裕で自室を確保できた。朝食は私が用意しても昼は散歩がてら外で食べていたし、夜はそれぞれの予定次第で色々だった。
そうした穏やかな日々が続いていたし、ずっと続くと思っていた。
しかし、2020年の年初にコロナ禍が始まる。春には夜間中学という活動と交流の場を失った。言われるところの“今日行くところ”と“今日すること”を手放さざる得なくなったのだ。それが彼の認知機能の劣化を促した……と今にして思う。
いつごろだったか、ドアを開け放った部屋から銀行との厄介そうな電話が聞こえてきた。その後「株はやめる」とぼそっと言う。何かあったんだなと思った。
彼は常識的なことには全く欠けているのに不思議な安全感覚がある。まだ働き盛りのある日突然「タバコやめる」とヘビースモーカーがスパッと禁煙した。また70半ばのある日「運転やめるから車売る」と言う。友達との旅行では運転手を買って出でるほどのドライブ好きが、だ。件の車を見るとわずかに擦った傷があったけど、車屋さんがその結論に驚いていた。おかげでタバコ火の心配と高齢者運転の心配はなくなっていた。そしてここに来て株で大損の心配もなくなった。しかし、頭脳的緊張感も、楽しみも、人との交流も皆無になったのだった。
株をやめてしばらく経った頃にはPCを立ち上げることもなくなった。深夜にスマホをいじっていて誤って電話がかかってしまい知人から苦情を言われたと腐っていた。気がつくとスマホを手にしなくなっていた。
私が部屋でZOOM会議や打ち合わせをしていると来客だと思い、私が部屋から出ていくと「お客さんは帰ったのか?」と言う。ウェブだと説明しても腑に落ちないようだった。
そして床屋に行くつもりが、本屋に行くつもりが、コーヒー飲みに出たつもりが、何故かその店が無くなっていたと、歩き疲れて帰ってくることが何度かあった。
夜中に音がするので居間を覗くと「いま客が来るから」と言う。彼が指さすのは玄関ではなくベランダだ。あるときは「おかあさんが来ていたけど」と言う。噂に聞く幻覚か?まいったな。
諸々、医者に相談したいと思い、健康診断に行こうと誘っても「イヤだ」の一言。
通帳の紛失再発行、カードの紛失再発行を繰り返していた。とうとう2023年の秋、私の仕事が諸々片付き身軽になるのを待っていたように、自分で再発行の手続きがスムーズにできなくなって「家内に電話をかわります」と言い、手続きに私が付き添うことになる。
そこからは “小さな事件”が色々起きる。迷子に備えて小銭入れとSuicaのパスケースに私の名刺と娘の名刺を入れる。万一の時に着ているものを警察に伝えやすいように上着やズボンをユニクロに揃えて、着ている写真を撮る。GPSを通販で買って彼の鍵につける。そんな渦中に冒頭の年賀状を書いていたのだ。
明けて2024年の正月7日、私は崩れるように動けなくなってしまった。50年仕事をしてきた緊張が解けて気が緩んだのか……。病院で抗生物質を3日分処方されてなんとか低空飛行まで回復。
年末に予約して1月30日まで待たされた銀行手続きには娘も同行してもらった。私の知る限りで4回目の再発行手続きだった。この時すでに彼は当事者意識が希薄。窓口で担当者に対応するのは私。
手続きが完了すると通帳・カード・印鑑を「これはあなたが持ってなさい」と私によこした。娘が私の顔を見て無言で頷く。帰宅して、念のため彼の手帳に通帳・カード・印鑑を私に預けたことを書いてもらう。これでもう紛失騒ぎは終わると心底から安堵した。
熱はないが体調は依然として、いやさらに低空飛行。2月10日、病院で諸々検査すると、どこも悪くないがCRP定量の数値が非常に高いので即入院に。
この辺りの記憶はかなりとんでいる。点滴だけでひたすら眠り、日々刻々と回復しリセットされて、諸々検査結果も良好になり10日で退院許可が出た。
入院中は娘が朝晩仕事の行き帰りに父親を訪問し、土日は孫も一緒に片付けをしてくれた。この間GPSが彼の動向を知るのに役に立った。娘は仕事途中にスマホを見たら、父親が棟を間違えてよそのお宅のドアを開けようとしているようでハラハラしたというけど(写真GPS)。
医者は私の顔を見て「ここに来た時とはまるで別人だね」と言う。でも何が原因かわからないので気をつけて暮らして1ヶ月後にまた検査をしましょうと。付き添っていた娘と私が「原因はお父さんかもね」と話していると医者が書類から顔を上げて「それはお父さんがかわいそうだよ」と笑った。
そして1ヶ月後。検査の数値は良好だった。原因は依然不明…私の敵前逃亡願望か…。
確かなことは、何かと頼りにしていたツレアイが壊れてしまったこと。そうなると仕事の店仕舞いをしても、体調リセットしても、呑気な隠居見習いの幕は開かない。それどころか、認知症介護に突入かよ!ため息。
4月になってパタっと彼が一人では外出しなくなった。それではと私は都心にガス抜きに出かけ始めた。
どこに何をしに行き、何時ごろに帰るかを話して書いて、お昼やお夕食、おやつをメモしておいた。予想外だったのは、その紙に彼が返信を書いてくれたこと。さて、いつまで留守番ができて、こうして返信くれるかな。
著者は畏友上大岡トメさん。いちばんの学びは「認知症の人の世界に合わせる」ということ。いわば松田道雄『育児の百科』の「認知症トリセツ版」。
23年の6月に刊行、24年1月に2刷、5月に3刷になった。樹脂の接着剤ではなく本漆を用いた本来の金繕いを紹介した、最後の仕事が“重版出来”したことは本当にうれしい。
昨年末までは企画編集の暖簾をあげていました。
名刺の添え書きは、PLANNING COORDINATION COPYWRITING AND SO ON
仕事の面白さは、吹聴したいことの人とカメラとデザイナーなどスタッフを組むこと。自分への戒めは「自己模倣をしない」。
それで50年飽きずにきました。