生きてこなかった「もう1人の私」
生きてこなかった
「もう1人の私」
田村 亮子
もう20年も前になるでしょうか。
「50カラット会議」という活動をやっていました。(みなさま、本当にお世話になりました)。
各分野の専門家の女性たちに4,5人集まっていただいて毎回50代からの女性をテーマに会議をし、その内容を発信していました。
その中の1つのテーマが「生きてこなかったもう1人の私」。
これは単純に、子供の頃は絵描きになりたかったとか小説家になりたかった、とかいう話よりも、もっと複雑で深い意味があります。
その人の「影」の話なのです。
ユング心理学では、「私」というひとつの人格としての自我を確立するためには、「私」という意識の統合性が存在している必要があるとしています。
そのためには無視する自分の側面があり、抑圧して無意識の領域に押し込めたものがある… それが「影」。
「影」とは、自分の無意識に存在している「その人の生きてこなかった半面」ともいえます。
私が意識し、私が知っている「私」の背後に存在している無意識の領域にいる私。無視してきた側面。
本能をあまりに抑制しているとか、自我が一方向に偏った構造をしていると、いつか「影」の反逆を受ける…。あまりにも立派で、あまりにもよい人というのはどこかに抑圧された「影」が隠れている。
「影」は、社会的な一般通念や規範と反する、自由奔放な本能の働きという意味で、悪といわれるものに近接するのだそうです。
自分の中の悪(必ずしも悪とは限らないのですが)、受け入れがたい部分。凶暴性、無慈悲、嫉妬、性的な淫蕩、強欲…
誰にでも「影」はあります。
私にはない、という人は子供や親に「影」を肩代わりさせている。聖人君子のような立派な人の子供が手に負えないワルだったりするときは、親の「影」を子供が肩代わりしている場合があるとか。
集団の「影」の肩代わりとしては、いけにえ。
家族の中で、学級の中で、会社の中で、集団の「影」をいけにえの羊に押し付けて、自分たちはあくまで正しい人間として行動する。
誰かの犠牲の上にたって、多数の者が安易に幸福を手にする方法なので、よく発生するようです。
「影」は、臨床的には「影の病」として「二重人格」「二重身(ドッペルゲンガー)」「離人症」といった症状として現れることがあるといいます。幻聴、幻嗅も。ここまで行くと治療の対象ですよね。
もっとも、日本人の自我は潜在的には自我の多重性をもっているのではないか、と心理学者の故河合隼雄先生は書いています。
例えば、母の死をいたむ感情と、母の死によってひと段落したとほっとする感情は、西洋人では両立しがたいので葛藤が生まれますが、日本人の場合は同時に共存し矛盾することがなく統合されているのではないか、と。
※ご興味のある方は、「影の現象学」(河合隼雄著 講談社学術文庫)をどうぞ。
こうした無意識の領域を素人が触ると危険なので、
50カラット会議では、さらりと「選ばなかったもう1つの人生」を話してもらうことにしました。
陽のあたる場所を歩いている方々なので、自我も自己コントロールも強い。「影」なんて出てくるのかしら?
ところが…
医者や法律家や栄養学の学者という今をときめく専門家たちが語り出したのは、ギャンブラーになりたかった、小料理屋の女将をやりたかった、芸者でしゃなりしゃなりと歩きたかった、などなど。
まぶしい陽の光には、濃い影ができるのでしょうか。
なぜそう思うのか?と問うのは無意味です。なにしろ無意識の領域から出てくるのですから。本人たちだってわかっていません。
これはご本人たちにとっても意外な発見だったのか、その後ほんとうにギャンブラーとして世界中のカジノを巡ったり、小料理屋を借り切って女将をやったり。
「自我」で抑え込むこともなく、「影」に乗っ取られることもなく、「自我」と「影」の調和と統合。
なんともあっぱれです。
ところで、私の「影」については?
中学2年のときに「デミアン」(ヘルマンヘッセ著)を読みました。自分の中の二つの世界を描いたもの。
まさしく「自我」と「影」の話です。当時はそんなことわかりゃしません。
ただ、その後、自分の中にある悪を受け入れたような気がします。
感想文を書いたら、担任の先生に呼び出された記憶があります。
この「50カラット会議」のあと、私は自分の頭と体を隅々まで使ってみたいと思いました。
なんだか、まだ使いきっていない部分があると感じたのです。「生きてこなかった半面」を生きてみたいと思ったのかもしれません。
頭が痛くなるほど勉強してみたい、指の先まで感覚が行き届くようになりたい。
本能と知識の融合、かな?
たどりついたのが「中国医学」と「気功」でした。
選んだ理由はわかりません。ただ、やってみたかったから。
中国医学の基本は「気」です。
気功のめざすところは、「気」を自由自在に操るところにあります。修業が進むと、無意識の領域にまで下りていきます。
それがどのような世界なのか、見てみたいと思っています。いつになるのか、生きているうちに見られるのか、わかりませんが。