枇杷の袋がけ
枇杷の袋がけ
島に来て十五年近く、毎年春が来ると欠かさず行なっていた枇杷の実の袋がけを、今年はやらないことにしました。正確にいうと三本目の木の途中まで袋をかけたところで止めました。
枇杷の袋がけ?なにそれ?ですよね。私も島に来て初めて聞いた時はそう思いました。説明します。
枇杷は伸びた枝のサキにゴロゴロ束のようになっていっぱい実をつけます。そのままにしておくと実は全部小さくしか育たないので、形の良いのを三個だけ残して後の実は外してしまいます。摘果と言います。これに掌がすっぽり入るくらいの大きさの紙袋をかけ針金で口を括る。巾着袋のようになります。鳥や虫の害や、風で擦れて傷がつくのを防ぐためだと思うけれど、よくは解りません。周りでやっているのを真似ているだけです。なにしろ果物の栽培なんて生まれて初めてのこと。東京の家にも柿や枇杷があったけれど、自然に実ったものをただ捥いで食べていただけでした。
島の家には枇杷の木はなかったのですが、越してきて間もない時、我が家に隣接する果樹畑の借り手を探していて、挨拶半分の立ち話の流れで、捥ぎたての果物を食べられるっていいかもと、なにがどのくらい植っているかも考えずに借りてしまったのです。
次の年の春のことです。実家が枇杷農家という友人が遊びに来て、枇杷の木をみて「そろそろ枇杷の袋がけの時期ですね、しばらく忙しくなりますね」と言われ、袋がけ?なんだそれ、そこから始まりました。
袋は中型果実専用に作られたものが一〇〇枚ひと束にして農協で売っていました。とりあえず五束買いました。 五百枚。多すぎるかもしれないけれど余ったら来年また使えるから、と思ったは甘かった。
作業自体はそれほど難しいものではありませんでした。慣れてくると、手は忙しく動かしているけれど、心はのんびりとゆったり。鶯が鳴いています。まだちょっと下手くそ。風が木々の葉をさやさやとゆらします。新緑の中に所々刷毛で白粉を刺したように見えているのは山桜かな。青空がキラキラ光っています。自然の懐に抱かれながらのそれは気持ちの良い作業です。五百枚は遊び気分にうちに無くなりました。余るどころではなかった。後どのくらい買い足せばとぐるり見渡せば、殆どの木はまだ手付かず状態ではないか。一体ここには枇杷は何本あるの。初めて数えてみました。十三本ありました。一本の木に百房前後成ります。ということは、……計算したくない。
朝早くから夕暮れまで、黙々と袋を掛け続けました。こんな暮らしになろうとは考えてもいなかった。来年はもっと早くから始めなくては。文句と反省が頭の中ぐちゃぐちゃ。それでもなんとか枇杷の袋がけ、終わったぞー。二週間近くかかりました。
五月半ばごろ、袋が膨らんできた感じがします。中はどんなになっているんだろう。袋の端をちょっと破って覗いて見ると、わあ!ふくふくと丸い枇杷の実が金色に輝いています。枇杷ってこんなに美しかったったんだ。一粒ちぎって薄い皮を剥くと、果汁が指に滴ります。かぶりつくと、甘くて柔らかな酸味があって、枇杷ってこんなに美味しかったんだ。ただうっすら甘いだけではなかったんだ。この美味しい枇杷を、あの人に、この人に食べてもらいたい。.箱にたっぷり詰めてあっちにこっちに送りました。
いろんな声が返ってきました。美味しくって感動した、瑞々しくて今まで食べていた中でいちばん美味しい、好物の枇杷をお腹いっぱい食べられて幸せ。皆さん、こんなに喜んでくださる。嬉しかった。頑張った甲斐がありました。枇杷が好きな人が思った以上に多いことも知りました。
「美味しかった」その一言が届くのが嬉しくて、毎年送るようになりました。それは、筆無精の私たち夫婦の「元気にしてます、なんとか生きています」の近況報告でもありました。
以来大変ではあったけれどなんとかこなしていた枇杷仕事が、今年は人の出入りが多かったとか予想外のことが次々色々重なって、始めるのが大幅に遅れてしまいました。のみならず、畑の全ての作業も後手後手になってしまって、袋をかけながら、夏野菜の畑もまだ準備できていない、摘果もしていない木がまだいっぱい。袋はまだ三百枚しか掛けていない。やるしかないけれど、できるんだろうか、どうなっちゃうんだろう。パニック状態になっている時、島に遊びに来たという知り合いの植木屋が、ちょっと顔を見にきましたとやってきて、
「袋がけやってるんですか。大変だねー。うちはもう数年前からやめてますよ。カラスがね、どうも袋をかけるとそれを合図に目掛けて取りに来るようなんで、思い切って掛けなかったら、カラスは来なくなったね」
カラスは今まさに食べごろを見逃さず、集団でバサバサとやってきて目の前で袋ごと千切ってどんどん持っていってしまいます。隣の枇杷が丸坊主にされているのをみたことがあります。カラスから実を守るために、木に丸ごとすっぽり防鳥網をかけたり、カラスの嫌がるキラキラテープを畑中に張り巡らしたりするのですが、かなりの大仕事です。それもしなくてよくなるわけだ。素人ではなくプロの植木屋がそう言っているのです。無袋栽培、飛びつきました。そんな簡単なことで良いのですか。今までやってきたことは一体なんだったんだろ
そして五月の末、枇杷が色付き始め収穫の時を迎えました‘
袋をかけなかった枇杷は、いつもよりちょっと小ぶり。所々に小さな傷やシミができています。味は、少し酸味が足りないような。でも、生り物は天候の影響があるから今年はこういうものなのかも。
そして袋をかけた枇杷はと見ると、ふっくらと大きくシミひとつない美しい肌。惚れ惚れします。ほのかな酸味のある甘さが口を満たします。完熟ビワならではの濃い味です。袋をかけた方が明らかに美味しい。カラスは袋がけ効果をちゃんと知っていたのです。
来年は袋をかけると決めました。畑がまだ忙しくならない春の早いうちから始めよう、と今は思っているけれど、その決心、覚えていられるか、ちゃんと日記に書いておこう。
2009年に住み慣れた東京の自宅を引き払い、舅の檀一雄の終の住処だった福岡県能古島へ移り住む。以来、自家菜園で土を耕し種を蒔き、四季折々のスローライフを楽しんでいます。
能古島の晴子スタイルは、『檀流スローライフ クッキング』でどうぞ。